お久しぶりです。
考えた事を文にする機会が無かったので、久しぶりに文字に起こしました。
メモから貼り付けているので、文の書き方が以前と異なっていると思います。
私の思った事そのままなので、ここに残しておきます。ではでは。
人が変わる事を悲観的に考えるのは、それ自体が悲しい事だと最近悟った。けれど、置いていかれるような感覚はいつまで経っても慣れず、人はいずれ自分の元を離れていくものなのだと思うようになってしまった。
就学。就職。結婚。出産。ライフイベント。人は節目において変わる事が多い。わかりやすい事だけではなくとも、例えばその人にとって大切な事で、ずっと悩んでいた事が解決した時に、すっきりとした表情で去っていく。本当は喜ぶべき事なのに、心から喜べない自分がいる。そんな自分を醜いと感じる。
自分だって変わっているはずで、それにより関係が終わってしまった人も、気づかないうちに大勢いるはずなのだ。相手にとってそれは悲しい事だった可能性だってある。しかし、自分のことは棚に上げて、私は私の周囲の変化を悲しく思っている。卑怯だと感じる。
ただ気持ちというのはどうしようもない部分もある。その上、感じた事を感じていない事にして、放置すると、ある時に一気に流れ出す。これはこれでよくない。私は自分の気持ちに気づかないふりをする事で生きている節があるから、余計に危ういと感じる。
気持ちを無視する事なく、その場その場でしっかりと受け止める事が出来る様になる事。そして、人への頼り方を覚える事。これが私にとって、今後必要になってくる事だ。頼るというのは甘えることと同じではない。自分の言葉で、自分の気持ちに嘘をつかずに、相手に伝えることが出来る能力。一筋縄ではいかないだろう。
今まで怠ってきた分、見ないふりをしてきた分、そこが私の弱点になっている。けれど、悲しいと思う気持ちも、辛いと思う気持ちも、弱くて必要のないものではない。そう私が感じたことも全て事実で、無いことには出来ない。少しずつ学んで、そう思わない強さを手にする事は、出来るかもしれない。
希望はある。全く出来ないことだらけではないのだから。まずは、今自分が何に傷ついて、何に疲れているのかを理解すること。それがわかったら、次にその気持ちを吐けるようにする事。一気に自分の中で処理しようとしない事。今年は重点的にやっていこう。私が私のままで、いつかは人の役に立つために。
自分の感じたこともまた事実であるという事
お久しぶりです。最後にブログを書いた日から随分と時間が経ってしまいました。
特に時間があるわけでもありませんが、休憩がてら少しだけ書いておきます。
卒論、日々の課題、入試のための勉強。
やらなければならないことに思考が支配され、不安や焦りに感情が左右され、なかなか落ちつけない日々が続いております。
卒論の分析は私の将来に役立つから。入試は、大学院に入るために必要なことで、院に入ればその後の未来も拓けるはずだから。
自分が納得出来るように、やることが終わった後の素晴らしい未来について何度も言い聞かせてはいますが、やはり頭ではわかっていても辛さは和らがないものです。
自分以外にも大変な人は沢山いる、頑張っている人は沢山いる。それもきっと事実なのでしょう。
しかし、自分が今まさに辛いという事も事実なのだと気付いたのは、つい最近の事です。
頑張ろうと思えば思うほど、周囲と比較し、自己の弱さを嘆き、何もかもが嫌になってしまいそうな毎日です。私はカウンセラーを目指しているというのに、情けない話だと思います。
しかし、何を目指しているか、何をしているかという以前に、自分も一人の人間であるのだという事を思い出す必要もあるのではないかと考えたりします。
辛いものは辛い。悲しいものは悲しい。それは、自分が社会不適合者だから、自分が人より弱いからではないのだと。
もちろん、感情に左右されてばかりではいけないなとは思います。ただ、自分の感情を大切にすることは、誰に何と言われようが関係なく大切だと思うのです。
何かを言うのが自分だろうが他人だろうか関係ない。弱いと言ってくるのが自分だとしても、関係ないのです。今、ここで、辛い悲しいと考えている自分がいることは確かなのです。だったら、その自分を否定することは、誰にも出来ないはずなのです。
人は複雑な感情を抱えながらも、前に進む力があると私は考えています。
かく言う私は自分自身の力をいまいち信じられていませんが、それでも、積み上げてきたものが全くないとは言えないのではないかと思っています。思いたいだけかもしれませんが。
いずれ、感情を無視し、その場で感じたことを無きものとしていた当時の私についてのお話もしようとは思いますが。過去を振り返った今簡潔に言えることは、自分の感情は否定しない方が良かったなという事です。
実はこのお話は、現在自分が研究している分野にも関わりのある話だったりします。研究のお話もいつか、別の機会にお話します。
いつだって強く生きられる人なんてほぼいないと思いますし、人は誰しも自分なりの弱さを抱えて生きているのだと思います。時にその弱さを鬱陶しいと思い、嫌悪し、消えたいとさえ思うこともあるかもしれません。
それでもいいのだと、自分が感じたことは否定されるものではないと、そう思える自分でありたいと最近は常々考えています。
生きているのが辛いと感じてしまうことが多々ある私ですが、少しでも「出来ない自分」を責めすぎない生き方が出来るようになれるよう、研究を続けたいものです。
研究が実を結んだ際には、ここで結果をお話しつつ、それが誰かの支えになればよいなと思う今日この頃でした。
ふわふわとした抽象的な内容の文を書いてしまいました。どうも最近の私は根を詰めてしまっているようです。
ここだけの話、死にたい消えたいが口癖の私ですが、どうにか少しでも生きやすい世界にすべく奮闘中です。せめて私に関わりのある人だけでも、私の文を見る人だけでも、生きやすいと思える平穏な日々が訪れるように頑張りますね。
と、決意表明もしたことですし、研究に戻ろうかと思います。
最後に大好きな作家さんのお言葉をお借りして。こんな独り言のブログを見て下さった方、世は理不尽だったり、疲れてしまうことも多々ありますが。
一緒に頑張りましょうね。(でも、自分と話し合って、どうかご無理はなさらず。)
これ以上書くと綺麗ごとのように見えてくるので、今回はここまで。
では、また次回。
中学の記憶の話
こんにちは。初めて、iPhoneから投稿します。
最近は寝るにも暑かったり、体の調子が悪かったり、食欲が無くなってしまったり…と。
夏バテ気味な私です。
なんてことは無い雑談から始めますが、今日は髪を染めに行く日です。
今まではインナーカラーを好きな色にして、全体のベースカラーは茶色にしていましたが、今回は思い切って全部青色にしてこようと思います。
ちなみに、グラデーション仕様にします。Twitterを見て下さっている皆様、恐らく写真込みでツイートするのでお楽しみに。
ところで、最近は卒論や課題や何やらで、一層忙しい毎日を送っています。
現実に追われていると、空想に浸りながら教室にいた中学生や高校生の頃を思い出してしまいます。
特に中学生の頃は、狭い世界の中で、自分の世界を広げようと必死だったなぁと。
というわけで、今回は少しだけ、中学生の頃のお話しをしようと思います。
中学の頃の1番大きな出来事と言えば、自分の中では家出したことが思い出されます。
その頃浸っていたとある小説サイトのコメント欄では、チャット形式で色んな人と話す、というのが主流になっていました。
本来そういった目的で使う場所ではなかったのですが、まだチャットアプリが主流ではなかったので、当時は本来の使用方法とは違う方法でコメント欄が使われることがあったのです(もしかしたら、今もあるのかもしれません)。
私は、中学1年の頃からそこの常連でした。
中学受験をし、地元から離れ、それまでとは違う環境に突然飛び込んだ私は、1年目の秋にとうとう耐えられなくなってしまっていました。
そんな私にとって、自分にとって都合の良い世界を築けるチャットの世界はとても居心地の良い場所だったわけです。
ましてや中学1年生。まだ、学校や親といった狭い狭い人間関係しか知らなかったのですから、知的好奇心や広い世界への憧れ、対人関係の不安や寂しさを満たしてくれるのに、これ程素晴らしい場所はありませんでした。
詰まるところ、私はどっぷりとその世界に入り込んでしまっていたのです。
1年生の頃は、それでもなんとか持ち直して、不登校で行けていなかった学校にももう一度登校することが出来ました。
しかし、中学2年の秋、私は再度不登校になります。
家出をしたのは、2度目の不登校を起こしていた時でした。
親の目を盗みチャットを始め、夜な夜な会話を楽しみ朝方に寝る。引きこもりの生活は1ヶ月続き、そしてついに、私は行動を起こします。
親とも上手くいかない。弟も、祖母も嫌い。そんな私に、チャットで「家出をするならおいで」と言ってくれた女の人がいました。
私は無我夢中で、祖母の制止も張り切って、ありったけのお金をもち、ボロボロのパーカーを着て家を飛び出しました。
今考えれば、恐ろしい事です。当時14歳の女の子が、本当に女の人かもわからない人のところへ、しかもチャット形式で話しただけの知らない人のところへ向かったわけですから。
しかし、当時の私はもう何もかもが嫌で、嫌いで、辛くて、苦しくて、自分のことすらどうでも良くなっていました。もうはっきりとは覚えていませんが、もしかすると「死んでもいいや」くらいに考えていたかもしれません。とにかく、家族に縁を切られても家を出たかった。私は必死でした。
結果だけお話しすれば、電車で向かった先に待っていた人はちゃんと女の人で、その人と話をして(確かマックで、しかも口頭ではなく私は筆記で話したかと思います)、諸々の準備も整っていない私がそのままどこかへ行けるわけもなく、そのまま引き返して家に帰りました。
今こうして思い返すと、ある意味行動力のありすぎるその頃の私自身に、感心と呆れ混じりの感情が浮かんできてしまいます。
ただ、人は世界が狭ければ狭いほど、居場所が少なければ少ないほど、「特定の場所や人」に執着するのだな、とこの文を見て下さったどなたかにはご理解頂けるかと思います。
…なんて言いつつ、この経験を活かせていないので、偉そうなことなんて私は何も言えないのですが。
さて、そろそろお出かけ先に到着します。
という事で、今回はここまでにします。ではまた、次回。
IFという言葉を知った経緯の話し
お久しぶりです。暑くて寝付けない時期に突入しました。
随分と蒸し蒸ししてきましたね。せめて扇風機くらいは欲しくなってしまいます。
ブログを書く気力もないくらいに、様々なことがありました。それ故更新できない日々が続いておりましたが、やっと落ち着いてきたので、IFに関するお話でもしようかなと思います。
本当は昨夜書くつもりだったのですが、私としたことが、忘れて寝てしまいました。
さて。私と同じIF保持者の皆さんは、自分がIFという言葉を知った時のことを覚えていますでしょうか。
私はといえば、全く覚えていません。
しかし、いつ頃からIFという言葉を使い始めたか、というのは、なんとなくですが覚えています。
最初に彼ら(IF)が現れた小学生の頃は、恐らく自分が作り上げた空想として捉えていて、特別他人に話すといったことをしませんでした(これについては、IF発言当初に関して書いた過去のブログを読んでいただければ、何故そのような認識だったのかお分かり頂けるかと思います)。
また中学1・2年生の頃はというと、自分が人とは違うという認識を持ち始めてはいたのですが、IFではなく「自分は多重人格なのではないか」と勘違いしており、当初入り浸っていたとあるサイトでも、多重人格者として振る舞っていました。
今思えば、あのサイトにも私と同じように勘違いをしていた人がいたのではないか、と考えるのですが、その話についてはまた別の機会に。
多重人格なのでは、という疑念と、その思い込みからくる振る舞いを暫くやめることのなかった私ですが、心のどこかで「いや、多重人格とは違う」という思いも抱えていた私は、一時的に彼らを忘れる、必要としないことで、「普通の人間」として振る舞おうとしました。中学3年生頃のことです。
この頃には、私は彼らの存在を「異常」として捉えていました。
中学生の私にとって、「異常」という意味で人と違う、加えてどんな病名にも当てはまらない可能性のある「何か」を抱えた自分は、恐怖の対象でしかありませんでした。
その為、彼らの存在を無視しようとしていた時期は、ある意味「普通になれた」と思えたため、心穏やかに過ごせていました。
しかし、それまで彼らに頼りっきりだった私にとって、やはり突然存在を無視し続けるという事は出来ませんでした。
彼らの方も同じで、最初は一切声をかけてこなくなっていたのですが、最も古い友人である2人のうちの一人が、いい加減耐えかねて声をかけてくるようになったのです。
「やめて」という私に、それでもなお聞こえてくる声。授業中や休み時間、ふとした瞬間に、はっきりと語りかけてくる。
もちろん、彼に悪気はありません。本当は話したいけれど、異常であるのが怖いと思っている私のことを、彼はよく理解してくれていたので、彼としてはただ私を助けたかったのだと思います。
しかしこれが当時の私にとっては逆効果で、制御もできず、日に日に増す声に恐怖を感じた私は、ついに保健室へ足を運び、彼らについて当時の養護の先生に相談しました。
友達にも、親にも相談できない話である、という事を前提に、私は勇気を出して現状について話をしました。そもそも先生という存在が苦手だった私がわざわざ話に行くくらいですから、相当切羽詰まった状態であったのだと思います。
そんな状態の私から話を聞いた後、先生は最後にこう言いました。
「親御さんに話してみようか?」
私は、一瞬で先生に対し話す気を無くし、さっさと話しを切り上げて保健室を後にしました。
現在心理学を学んでいる私からすれば、先生の対応に色々突っ込みたいですし、その人の対応が良くなかっただけだよと当時の私に教えてあげたいくらいですが、そんなこと知る由もない中学3年生の私はすっかり人に対する信用を失い、心は冷めきっていました。
保健室をでた直後、ずっと私に話しかけ続け、他人に対し相談することを最後まで反対していた例の彼が一言。
「だから言ったろ。俺達と話しておけばよかったのに。」
全くその通りだと思いました。
その後、私はパニックになることもなく、冷静さを取り戻し、彼らと向き合おうと考えを改め直しました。
そこから少しづつ、インターネットで調べ直し、彼らとも話をし、議論を重ね、今に至ります。
というわけで、前述した通り、私はIFという言葉を明確に知った時期を覚えていません。しかし、こういった経緯の後、調べ直している途中で知ったのだろうなという推測は出来ます。
そして、そこで知り得た知識と、彼らとの話し合いが合致したからこそ、私は今でも彼らのことをIFと呼んでいるというわけです。
久しぶりの長文で、文が読みにくい部分も多々あるかもしれませんが…。
以上が私の、IFという言葉を知った経緯でした。
うん、この時間になっても相変わらず暑い。コンビニにIF達とアイスでも買いに行きましょうかね。ついでに、最近同棲している彼氏君がはまっているかりんとうも買いましょう…。
今回はここまでにします。では、また次回。
自身を許すことが出来ないということ
こんにちは。やらなければいけないことが進まず、挫けそうな私です。
しばらく天気が悪いという予報が出ています。自身の精神状態と相まって、あまり気分はよくありません。
そのような状態のため、過去の話も書けず仕舞いでした。落ち着いたら、書くつもりではいます。
このところ睡眠の質も良くないようで、眠りの浅い日が続いております。
夢見や、寝つきも悪い。詰んでいます。
大抵こうなる時は、自分のやりたいことが上手くいっていない時です。
今はとにかく卒論が進まず、半ば自分に対しイライラしながら過ごしているのが良くないのでしょう。
パソコンを開けば、書きかけの文章や調べた先行研究が大量に出てくるというのに、肝心の課題は中途半端なまま書けずにいるという状態。
そんな状態が1-2週間も続けば、イライラもしてきてしまいます。
何とかしなければ。
焦れば焦るほど、目標が遠ざかるようで、泣きたくなってしまいます。
私はとにかく人より要領が悪いので、一つの物事に対し割く時間がとても長くなってしまいます。それ故、体力も精神力も人より削られてしまっているのかもしれません。
不真面目に思われたくない。出来る人でありたい。人と違うことがしたい。平凡でありたくない。理想の自分は高い位置にいます。しかし、どれだけ時間をかけても、考えても、実行しても、どうしても手が届きません。
こうしている間にも、他人は先に進んでいるのではないか。私はずっとぐずぐずとしていて、何も進んでいないのではないか。
なのに、逃げてばっかりいていいのだろうか。必死で向き合っても、自分の思う通りに事を運ばせることが出来ないままで、良い訳がないのに、上手くいかない。
悔しいのです。
むやみやたらにやっても、良くないことはわかっています。
しかし、行動しなければ気が済まないのです。
何かしていなければ、自分が根っこから腐ってしまいそうで怖いのです。
私は損をする人間だなあと、つくづく思います。誰かが認めてくれるわけでもないですし、褒められても謙遜してしまいます。認められないのは自分自身で、自分を褒めたいのは自分自身なのだろうと思います。
自分を一番許せないのは、いつだって自分自身です。
気が済むまで書いてやろう、と思っていたのですが、自分に対する不満を書き連ねていても物事は進みませんね。
けれど、少しだけすっきりした気がします。
今回はここまでにして、今一度課題と向き合ってきます。
では、また次回。
誕生日のこと。
こんにちは。今日は天気がとても良いので、洗濯物がよく乾きそうです。
体調が良くなかったのですが、無事回復し始めているので、研究計画書を書く前にブログを書いてしまいます。
昨日は誕生日でした。お祝いの言葉を下さった皆さん、ありがとうございました。twitterでも、LINEでも、沢山のお祝いの言葉を頂き嬉しい限りでした。
今年はコロナの影響かつ女の子の日初日でコンディションが最悪だったため、盛大なお祝いとはいかなかったのですが、沢山の方から「おめでとう」と言われて満更でもなかった私です。
私の周りには優しくて温かい方ばかりだなあと、改めて思いました。
そして、一番長い付き合いの大学の友達、いつもありがとう。君は誕生日が私と近いから、お互いに体調が万全だったら、改めてお互いのお祝いでもしよう。誕生日のプレゼントはね、大きいぬいぐるみが欲しい。笑
それから、彼氏君。君の優しさと、少年のような笑顔が大好きです。昨日も言ったけれど、君が何をしようと、私が君のことを好きであることに変わりはないよ。君は自分のことを散々クズだというけれど、私はそうは思わないし、君には感謝しかありません。ありがとう。
2人が見てくれるとは思っていないのですが、ここにも書いておきます。
誕生日のお祝いに関する話で、一つ、特筆したいお話があります。
母から送られてきたメッセージについてのお話です。
家族の中でも一番に、誕生日のメッセージを送ってくれた母。短い文ではありましたが、その中に、とても印象的な一文がありました。
「小さい頃のあなたと、今のあなたは全然違うから。」
既に私の過去の話を読んでいる方であれば、このメッセージに込められた意味が、私にとって何故この一文が印象的だったかが、もしかするとわかるかもしれません。
このブログでは、まだ書いていなかったのですが、私は所謂母子家庭で育ちました。
小学校の頃私は、以前お話した通り、極端な二面性をもつ子どもでした。
中学生の頃は、中1・中2の秋頃に不登校かつ引きこもりに。ネットやチャットに居場所を求め、完全に昼夜逆転の生活。ありったけのお金をもって家出を試みたこともありました。
中高一貫校だったため、そのまま上がった高校では、進路選択の際美大を目指すと決めるも挫折。高2・高3のクラスが正確に合わず、徐々に教室に入れなくなり、高3で保健室登校に。高3の春、5月頃に進路を「心理学科」に変更し、保健室と教室を行き来しながらなんとか高校に通い続けました。
簡潔にまとめても、見てわかる通り、私は扱いづらい子どもだったと思います。
その為、何度も母とぶつかり、何度も母に助けられた、そんな日々でした。
しかし、そんな過去があるからこそ、母のあの一文は、私にとって、そして母にとっても、特別な一文だなあと思っております。
母と向き合い話が出来るようになったのは、大学に入ってからのことです。今、関係性が良好である理由も、お互いがいい距離感を保てるようになったからだと思っています。
中学、高校、そして今に至るまでの話は、IFの話と絡めつつ改めて書く予定です。
私の過去を詳細に綴っていくうちに、「小さい頃のあなたと、今のあなたは全然違うから」という母の言葉が、どれ程特別な言葉なのかという事が、より伝わるのではないかと考えています。
だから今後はこの言葉を、私も頭の片隅に置きながら、過去の話を書いていきたいなあと思っております。
そうですね。中学の頃の話は、今夜時間があれば書くことにします。
では、また次回。あるいは、また今夜。
祖父の話し
こんにちは。
bump of chicken の曲を流しながら、作業を行っている午後です。
思ったことは書き留めておこうと考えているので、作業の手を一旦止めての投稿です。
今回は、小学校低学年の頃に亡くなった、私の祖父の話をします。
実は、祖父の人柄は、細かく覚えているわけではありません。
とある工場の社長だったこと、家では事務所としていた部屋にいつもおり、よくぽたぽたやき(お煎餅ですね)をくれたこと、祖父が存命だった頃は、家に来客者が多くにぎやかだったこと、笑顔が多かったこと。亡くなる直前は、病院におり、弱弱しくなってしまっていたこと。
しかし、亡くなった時のことだけは、ずっと忘れずに覚えています。
ある日、小学校から楽しく帰ってくると、亡くなった祖父が部屋の片隅に横たわり、家族と親せきが、とても暗く重苦しい雰囲気の中、祖父を見つめていたこと。荷物を置き、祖父の側に寄ると、全く動かず固まってしまった祖父が、まるでまだ生きていて、ただ寝ているだけなのではと思うほど安らかな表情で、そこに存在したこと。
人の死を目の当たりにするのは、それが初めてでした。
だからこそ、他の記憶より鮮明に覚えているのかもしれません。
幼い私にとっては、とにかく衝撃が大きかったのだと思います。
先にもお話した通り、私には明確なエピソードが思い出せるほど、祖父と過ごした時間の記憶はありません。そんな私が唯一覚えている(というより、後になって思い出した)エピソードを一つお話します。
私がまだ実家にいた頃、部屋の掃除をしていた際に、机の中にしまわれた、ビーズで出来たクリスマスリースのストラップを見つけたことがありました。
私はそれを見た際に、「おじいちゃんからもらったものだ!」と、何故か瞬間的に思ったのです。それまでは、そのストラップの存在すら忘れていたのですが…(おじいちゃん、薄情な孫ですみません)。
記憶の中では、ストラップは祖母から手渡されていました。病院にお見舞いに行っていた祖母が、家に帰って来ると、「おじいちゃんからプレゼントだよ」と、渡してくれていました。
私は生憎、自分の記憶に自信がないので、すぐさま祖母に確認を取りました。
しかし、祖母は覚えていなかったようで、私が思い出した記憶を話しても、まったく記憶にないといった様子でした。
がっかりしながら、「じゃあ、私の記憶が間違っていて、勝手にそう思い込んでいるだけなのかなあ」という私に、「でも、おじいちゃんが亡くなったのは1月だから、もしかするとクリスマスプレゼントとしてくれたのかもしれないね。」と、祖母が言ってくれました。
大したことのない、小さなストラップです。しかし、病気に苦しむ中、それでも孫にプレゼントをと、祖父がそのストラップをくれたのだなと思うと、今でも目頭が熱くなってしまいます。
真偽は、もう確認する術がありません。もしかしたらこのエピソードだって、やはり私の勘違いなのかもしれません。
それでも、このエピソードは大事にずっともっていたいのです。
きっと勘違いじゃなくて、事実であると信じて。だって、その方が幸せじゃないですか。人にとってはなんてことのない小さなクリスマスリースが、私にとっては唯一の、祖父との大切な繋がりになるのだから。
その他にも、祖母や母から聞いた祖父の過去の話や、私自身がもつ断片的な記憶は、まだまだあります。
聞けば聞くほど、私は祖父を尊敬していきましたし、思い出せば思い出すほど、祖父の行動に愛を感じました。
もし今も祖父が生きていたら、聞きたいことが山ほどあります。知識の豊富だった祖父からは、一体どんな話が聞けたのでしょうか。贈り物をしたら、どんなに喜んでもらえたのでしょうか。
ああでも、課題と向き合わない私のことだから、しっかりしろと怒られてしまうかもしれませんね。ましてや同棲なんて、許してもらえなかったかもしれません。
どれだけ考えようとも、亡くなってしまっているのだから、反応や会話は想像するしかありません。
死とは、そういうものです。だからこそ、私は今側にいる人を大切に生きていきたいと、常々思っております。
祖父が亡くなってから、もう14年ほど経ちますが、今でも祖父のことを思い出すと泣いてしまいます。
文を書きながら泣くのも、この辺りで終わりにしなければ。今日はまだまだ、やらなければならないことが残っているのです。
ということで、また次回。